[75:99] 焼津市・志太広域/静岡市清水
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名前:元練馬区民
:2015/01/01 (木) 22:11 No.4158
[1〜6:志太広域2015年1月] ご無沙汰しております。 私が静岡県で再び仕事をするようになって早2年。ここへ来て我が火葬場デビューの地・焼津も、また20km余り東の清水も施設更新の工事が始まりました。 まずは過去に私が投稿した、焼津市は志太広域事務組合斎場の現状から掲載していきます。
敷地の入口から 現火葬棟の前側に囲いが設置され、仮設待合室の工事が行われています。囲いの向こう側は過去の投稿に掲載したとおり、右が火葬棟、中が待合棟、左が式場棟です(ただし現在式場は利用できません)。
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名前:元練馬区民
:2018/01/20 (土) 10:58 No.5011
さて、1948(昭和23)年の開設から70年めの新装開場ということに なりましたが、改めてそれ以前に所在した場所をおさらいします。 焼津市といえば漁港が基幹産業の拠点ですが、現在では主力拠点は 新焼津漁港となりました。旧焼津漁港は上屋も解体され、主として近海漁業の 船着き場として使われることとなりました。その旧焼津漁港の一角に、 知る人ぞ知る海鮮料理の「お食事処・かどや」があり、全国からお客さんが来ます。 ここから100m余り船着き場側に焼津町火葬場がありました。 1922(大正11)年、それまで町内に7箇所あった、ほとんど野焼き場の 形態のものに取って代わるものとなりました。何しろ、当時の焼津町は 焼津駅から1km圏内が大雑把な範囲であり、火葬場の立地に適した場所など (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
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名前:元練馬区民
:2018/01/20 (土) 11:00 No.5012
過去には小川漁港付近も砂浜で、その一角に露天火葬場が存在しました。 そこには2本の松があったということです。しかし、当時の小川村としても、 もっと近代的な火葬場を建設するに至りました。 現在の小川公民館の南方ですが、跡地周辺は区画整理が進み、商業地・住宅地と なりましたので、「この画像の界隈」という婉曲表現にとどめます。 後に町制を経て、1955(昭和30)年に焼津市と合併するのに合わせて 焼津市火葬場に統合され、小川町火葬場は廃止されました。 なお、小川町や東益津村と同時に焼津市と合併した大富村と和田村にも それぞれ火葬場があり、やはり合併と同時に廃止されたということですが、 現時点で場所の特定に至っておりません。 (省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
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名前:元練馬区民
:2018/01/20 (土) 11:03 No.5013
また、この施設は1975(昭和50)年に「藤枝市火葬場」を統合すべく 炉の増設ならびに葬祭式場の併設を伴う改築を行い、志太広域事務組合の前身、 志太二市二町環境整備組合に移管されるまで焼津市が設置する「焼津市火葬場」でした (移管当時の二市二町の区域は現在の焼津・藤枝両市を合わせた区域と同じであり、 二町とは「焼津市と合併前の大井川町」と「藤枝市と合併前の岡部町」です)。 その藤枝市火葬場は現在の文学館・郷土博物館の隣接地に1914(大正3)年の 開設から約60年間にわたりありました。 跡地にはプレハブ小屋が建っていますが、やはり周辺は公園・住宅地となりましたので、 丘の下の跡地と上の文学館が入る程度の画像にとどめます。
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名前:元練馬区民
:2018/01/20 (土) 11:09 No.5014
- あまり内容の濃くない説明でお恥ずかしいですが、ここまでご覧くださいましてありがとうございました。
ところで、この新火葬場の供用開始に合わせて、この施設の名称が地味に変更されます。 従来は葬祭式場の部分のことを「斎場会館」と呼んでいたのですが、今後は施設全体の名称が「志太広域事務組合斎場会館」となり、部分名称として「火葬場」「葬祭式場」を用いるということです。私個人的には、全体名称はもっと「愛称」めいたものとすべきと考えます。実際に内覧会当日にいらした斎場建設担当の職員の方にも「焼津・藤枝市民からこの施設に相応しい名称を公募して付けるようにしてください」と要望いたしました。いかに設置者が「志太広域事務組合」とはいえ、一般市民・参列者が正確に認知するところではないため正式名称を言っても通じにくく、第一長すぎます(さらに「会館」が付いて改悪)。旧名称の「焼津市火葬場」といったほうが通じやすく言いやすいくらいですが、ただこれでは藤枝市民からすれば恰も組合員外のようだ、と反発を招くこととなります。また、単に「斎場会館」では、両市外から参列される方にはどこの市町のものか判別できません。要するに、名称決定の基準は「市民・利用者目線に立った、単純明快なものでなければならない」のです。まあ、剥げ剥げだった線路沿いの看板は、この「愛称」が付いたらそれで綺麗に塗り直すのが良いでしょう。
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名前:元練馬区民
:2018/02/03 (土) 23:53 No.5018
[94〜99:志太広域2018年2月] いよいよ新火葬場供用開始にあたり、進入路が変更されることとなり、 それに対応して、「あの看板」が塗り直されました。 南(浜当目集落)側から
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名前:元練馬区民
:2018/02/04 (日) 00:01 No.5019
北(葭岬(よしばな)踏切)側から 国道150号からは、この方向で来ます。 なお前述のとおり、南側は住宅地のため、なるべくこちら側から 来場するように案内されています。 やはり「こちらからは斎場へは入れません」の立て看板は ここに移されました。
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名前:元練馬区民
:2018/02/04 (日) 00:04 No.5020
再び暫定の入口から 内覧会当日はダートだった建物周囲ですが、ようやく霊柩車の通る部分が 舗装されました。「稼働に直接利便性をもたらす」部分から優先して 工事を進めなければならない状況から、「その場しのぎ」的な手順に なるのもやむを得ないといえます。
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名前:元練馬区民
:2018/02/04 (日) 00:07 No.5021
動物火葬入口はまだダートである上、火葬場建物と工事柵の間の狭い通路を 歩いて持ち込む形になります。
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名前:元練馬区民
:2018/02/04 (日) 00:08 No.5022
内覧会当日は進入できなかった、通路突き当たりより
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名前:元練馬区民
:2018/02/04 (日) 21:54 No.5023
ガラス戸の外から見た室内です。 焼香台があります。
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