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島の火葬場-蒸籠の神様が宿る島-
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:39 No.6194
とある日の昼休み、私は会社の非常階段にこもってスマホを操作していた。
「…日から2泊…予約完了。新幹線みずほ615号、つばめ343号、さくら572号…予約完了。高速船甑島1便及び2便…予約完了。レンタカー6時間…予約完了。…」
予約が手元の端末で完結するとは便利な時代になったものである。
このゴールデンウィークに心ならずも2日間休日出勤をしたため、2日間の代休を取得した私は、新たなる島の火葬場を目指すべく思案していた。
西日本の瀬戸内や日本海側の島についてはほとんど訪問を終えているため、次の場所をどこにするか検討していたのである。
休みの日が2日間であることから、初日は仕事終わりにそのまま新幹線で移動し、翌日朝に船に乗って訪問可能なところから候補地を選定するのだが、訪問件数の増加と反比例して選択肢がかなり限られてきている。
その限られた選択肢が、どこも費用と時間のかかるところばかりなので、ここに行く!という踏ん切りがつかず決めきれないのである。
さらには、残された各候補地の火葬場がどこも新しめで本土の火葬場と大差がなく、訪問のモチベーションがなかなか上がらないという事情もある。
だからこそ、最後まで行かずに残っているとも言える。こうなったら、島限定にしない方が多くの火葬場を巡ることができて、ここでの需要も高いと思われるが、それを言ってしまうと元も子もない。
その候補地はあと3箇所まで絞り込まれている。
言い換えれば、私が20年前から構想していた島の火葬場撮影も今回を含めあと3回で当初の目標を達成し、目途がつくということである。
種子島以南の鹿児島県・沖縄県の島や東日本の島については、遠すぎることと、一部を除いて1島訪問につき1火葬場となり効率が悪すぎるため、当初の目標に入れていないのである。
それならばと、近い島同士をグループ化してまとめて訪問しようにも、連絡の船が1日1便だったりするため、必ず島での宿泊を強いられ、費用と日数がかさむのである。これでは定年にでもならないと回りきることは難しい。
また、これらの島については飛行機及び長距離フェリー利用が前提になってくるので、仕事帰りに「じゃ、行ってくるわ。」と新大阪駅から新幹線で気軽に旅立つことができず、訪問難易度と費用が急激に上がる。
出発地はもはや新大阪駅ではなくなり、大阪空港か関西空港発となるのである。仕事帰りにこれらの空港に行ったところで、沖縄や九州離島方面の飛行機は終わっていてせいぜい羽田か成田行きしかなく、結局は翌日発となる。現在は仕事帰りに出発でき効率的な移動が可能だが、飛行機利用となると実質的に半日余分にかかることになる。
あと3回で目途が着いた後は、やるとしても旅行のついでなどでたまたま訪問できた際に単発の特別編という形になろう。
さて、その3箇所のうちどこにするかについて、単に費用と時間だけで考えるのではなく何か魂を揺さぶる「決め手」を探すべく、候補地の各火葬場を調べていたところ、一つ気になるニュースを発見した。
鹿児島県薩摩川内市の甑島列島に3箇所ある火葬場について、2033年を目途に統合する計画があるとのことである。
甑島列島は、3つの有人島と多くの無人島からなり、現在、うち2つの島に計3箇所の火葬場が設置されている。
北から、上甑島葬斎場(上甑島)、鹿島葬斎場(下甑島北部)、下甑葬斎場(下甑島中部)である。また、残りの有人島である中甑島にも平成16年まで火葬場があり、石碑が残っている。
令和2年8月に甑大橋が開通したことにより、中甑島と下甑島がつながり、晴れて全ての有人島が道路で結ばれた。
そのため、中間地点にある鹿島葬斎場の位置に新たな火葬場を建設し、1箇所に統合するというのである。
建て替えまではまだ9年ほど余裕があるものの、これが「決め手」となり、今年は甑島に行くことに決定し、冒頭につながるのである。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:40 No.6195
当初は、初日に勤務後そのまま夜の新幹線で川内駅まで行って宿泊、2日目の高速船1便で島に渡りレンタカーを2日借りて現地車中泊、3日目に本土に戻り帰宅というプランを考えていた。
島に渡った日に何らかの事情で撮影がうまくいかなかった際に予備日として翌日に朝駆けすることを目論んでいたのである。
更には、島に渡った日に撮影が無事終了した場合、勿体ないが1日分のレンタル権利を放棄して車を返却し、最終便の高速船で本土に戻り鹿児島市あたりで宿泊、3日目に本土側の火葬場撮影をしてから帰阪しようと考えていたのである。
ところが、攻守ともに完璧と思われたその目論見は儚くも崩れ去った。
甑島のレンタカー業者を当たったところ、平日にも関わらず島に渡る予定日が予約で一杯であり、車を2日間押さえられなかったのである。
定期船に接続してコミュニティバスが運行されているものの、その路線から外れる場所へは車が必須であり、建設業をはじめとする各種業務の方や釣り客等観光の需要が旺盛なのである。
休みの日は変更できないので、行程を見直し、2日目は鹿児島県本土側の火葬場を巡り、甑島は3日目に日帰りで訪問することにした。
遠隔地の離島を日帰りするとは極めて高リスクであるが、撮影がうまくいかなかったとしてもあと9年あるのでそのうちなんとかなるだろうという打算である。
そして迎えた出発当日、終業のチャイムが鳴ると同時に喜び勇んで会社を出て新大阪駅に向かったのだった。
本来、我が社ではこのような行為は通称「ベルサッサ」などと呼ばれ、暗黙的に推奨されない行為とされているのだが、新幹線に乗り遅れるわけにはいかないのでやむを得ない。多少残ったところで特に良いことが起こるわけでもないのだ。
おかげで余裕を持って新大阪駅に到着し、弁当と飲料を購入することができた。
車内販売が廃止されたため、事前に飲食物を持ち込んでおかないとこれから4時間もの間、空腹や喉の渇きに苛まされることになる。
そして19時54分、定刻通りみずほ615号は発車し、当初は混雑していた車内も広島駅を過ぎるとかなり空いたが、博多駅で再度多くの利用者が乗車してきた。
かつては、博多駅から西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)まで特急有明で4時間半を要していたのが新幹線により最速1時間10分台まで短縮された。
九州内の利用者が多いことは新幹線が定着したということで望ましい。
新大阪駅から乗車してきたみずほ615号は川内駅に停まらないため、途中の熊本駅で23時発つばめ343号に乗り換えたが、こちらは鹿児島中央駅行きの最終列車だけあって乗客はまばらであった。
新八代駅、新水俣駅…1駅ごとにそのまばらな乗客は降りていき、乗車していた6号車では下車一つ手前の出水駅でついに私以外の乗客がいなくなってしまった。
子どもの頃であれば、「やったー貸切りだぁ!」などとはしゃいで走り回るところだが、そういう気分にならなかったのは年を重ねたということであろう。
そうして新大阪駅から4時間、日付も変わろうかという23時45分に川内駅へ降り立ったが、私以外に下車した方はいなかった。
火葬場撮影に相応しい、静かで少し寂しい旅の始まりであった。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:40 No.6196
2日目の鹿児島県本土側訪問は別の機会に譲るとして、川内駅に着いて3日目の朝、私は先日の撮影疲れの目をこすりながら駅前のバス乗り場で並んでいた。
川内港行のシャトルバスに乗るためである。
通常、甑島に渡るのには串木野新港からフェリー「ニューこしき」に乗るか、川内港から高速船「甑島」に乗るかの2通りある。
特に川内港8時50分発高速船1便に乗ると、現地で7時間弱の滞在後、里港16時30分発高速船2便で日帰りができるようになっている。
甑大橋がない時代は、甑島列島内の里港と長浜港間で船の乗り継ぎが必須となり最低2日必要だったものが、架橋のおかげで高速船とレンタカーを併用することで1日で下甑島まで巡れるようになったのである。
他にも海上タクシーをチャーターするという方法もあるが、私は富豪ではないので端からこれは除外である。
元々は高速船も串木野新港発着であったが、甑島の各自治体が旧川内市と合併したことにより、船の更新に合わせて高速船のみ川内港に移っている。
川内港は規模が小さく、フェリーについてはそのまま串木野新港発着のまま存置されていて、こちらにも川内駅をはじめ各所からシャトルバスが出ている。
川内駅8時ちょうどのバスに乗り、8時30分に川内港へ到着した。運賃は破格の150円であり乗車時間のわりに安い。
自宅エリアのバスは30分乗車すると400円近くかかるため、こちらのバスには何か離島振興関係の補助があるのだろうかと推察する。
甑島商船のサイトには「出航30分前までに手続きすること」と記載してあるが、バスが出航20分前の到着なので、手続きが10分遅かったからといってキャンセルされることは多分ないだろう。
川内港到着後は、乗船名簿発券機に予約の際に送信されたQRコードをかざし、出力された乗船名簿を持って窓口で乗船券を購入するシステムとなっている。
いちいち記入しなくても事前にオンライン入力したものが印刷されるので非常に楽で乗船券も直ぐに購入することができた。
運賃は片道3440円でありクレジットカードも使用できる。フェリーより900円ほど高くなっているが、本土から里港まででフェリーが75分、高速船が50分でありその差は25分である。終点の長浜港まで行くならば、差はもっと広がってくる。
そして船は定刻通り8時50分に出航した。
本来なら展望デッキに出て出航の様子を撮影するところだが、にわか雨の予報により閉鎖されていたためその写真は撮れなかった。
船内のデザインはJR九州の車両デザインを手掛けている水戸岡鋭治氏によるもので、座席の木製手すりの意匠は行きに乗車した九州新幹線800系つばめのものと共通している。
船内は平日であっても混雑していて、2人がけの席はどちらかあるいは両方埋まっており、更に、後方のじゅうたん席には小学生の団体も乗船していた。非常に賑やかで活気ある船内である。
引率の先生が持っている資料から推察するに、これは薩摩川内市内の小学4年生(一部3年生)による「甑アイランドウオッチング」と称する遠足である。
地元の方や中学生の案内で甑島を巡るという郷土を知る取組が市を挙げて行われているのである。
そういったこともあり、窓側の座席にありつくことができず、やむなく豪華なソファ席に座ったのだが、鉄道でいうロングシート方向に配置されていて、船に横向きに乗るということになってしまった。
ただ、波が穏やかで乗り心地は良く、悪天候だった隠岐のようにあちこち振り回されて気分が悪くなることもなく、9時40分に上甑島の里港に到着した。
港にはレンタカー会社の方が待機されており、「こむすび様、○○様、××様」という札を掲げられている。
本来は、港や島の写真を撮りつつ、歩いてのんびりレンタカー会社に向かうつもりであったが、お迎えに来ていただいている以上、「いや、拙者は徒歩にて御免」などと無下に断るわけにもいかず、そのまま送迎車に乗って貸出場所に向かうことにした。
各火葬場近くで細い道を通るため運転しやすい軽自動車を選択している。
甑島列島は、川内川河口から約26キロ、薩摩半島から約30キロ沖合の東シナ海に浮かぶ離島であり、その名は、甑大明神の御神体である蒸籠に似た大岩から命名されたといわれている。
北東から南西にかけて約38キロにわたり島が連なっている。
令和2年度の調査では人口が3600人強あったが年々減少しているので、現在はこれよりも少ないと考えられる。
また、ここは様々な作品の舞台になったり撮影が行われたりしている。有名なのは「Dr.コトー診療所」という漫画の舞台になったことであろう。下甑島にある実在の手打診療所と離島医療に尽力した医師がモデルであったが、ドラマでは沖縄の島に設定が変更されている。
他にも、キビナゴをはじめとする各種海産物等が名産の農林水産業と、釣りや海水浴、キャンプ等をはじめとする観光の島である。
それでは、甑島巡りに出発しよう。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:40 No.6197
港のある上甑島の里地域は、陸繋砂州(トンボロという)という地形上にある。
波の影響で砂州が島をつなぐ地形を構成していて、他にも函館や串本、江の島、志賀島などでも見られるものである。
その陸繋砂州の上に里の集落が形成されている。
車は市街地を抜け、上甑島葬斎場に向かって順調に進んでいく予定だったが、カーナビがなぜか場所をうまく認識しないため、遠回りしたり道が突然変更されたりして何度か行ったり来たりした。
上甑島は、かつて合併により一つの村となっていたが、里地域が他地域と山で隔てられていることから分離独立し、里村と上甑村になった。
薩摩川内市に合併する前はその2村で甑島衛生管理組合を構成し上甑島葬斎場を運営していた。
更にそれ以前の資料を見てみると、上甑島に里村火葬場が、中甑島に上甑村平良火葬場があったことが分かっている。
里村火葬場は小字までは特定できたものの、現行の地図では小字が表示されていないため場所は不明のままである。
古い空撮を見ると、上甑島葬斎場の建物南側付近にぽつんと小さい建物が見えるがこれかどうかは確証が持てない。ただ、進入路は現行の火葬場と共通していて全く同じ位置にある。
道に迷ううちに見晴らしのよい場所に出た。一休みしていこう。上記のトンボロが良く観察できる地点だ。
海の向こう側に薩摩川内市の山々が見える。
島にいくつかある展望台によっては、空気の澄んだ朝、薩摩半島越しに開聞岳が見えるそうだが、本日は黄砂の影響か見通しは良くなかった。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:41 No.6198
ようやく火葬場への道を見つけて進んでいくと、緑の木々の間に白い建物が見えてきた。
目指す上甑島葬斎場である。
煙突はなく近代的な建物である。
それもそのはず、現在の島の火葬場においては、寺院風高煙突といったようないかにも昔ながらのといった火葬場は存在しないのである。
寺院風ではない普通の高煙突の火葬場も数は非常に少なく、そういった古い施設は私が訪問した後、この20年の間に廃止が進んで、もはや風前の灯火である。
逆に、離島の方が離島振興に係る補助や事業のおかげで下手な本土の火葬場より近代的だったりすることもある。
昔の火葬場が好みの方に対しては身も蓋もないことを先に言ってしまったが、とりあえず接近してみよう。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:41 No.6199
程なく火葬場前に到着した。
上甑島葬斎場は、昭和58年4月に供用開始され2基の火葬炉がある。
炉室は進入路の手前側、建物でいうと左手にある。
また、駐車場スペースがやや狭く感じたが、個別の自動車ではなく、マイクロバスに乗り合わせて来場されるためではないかと推定した。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:42 No.6200
海風の影響か、見たところ排気口は錆びが目立つ。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:42 No.6201
もう少し建物に近寄ってみる。
入口上部には施設名が記載されている。
入口左の施設名も「薩摩川内市上甑島葬斎場」になっている。
市町村合併した際に、甑島衛生管理組合営から薩摩川内市営に変わったため、施設名を彫った石板を交換したと思われるが、それから20年ほど経過し、既に違和感等は感じられず馴染んでいる。
建物入口左脇には霊灰塔の石碑がある。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:42 No.6202
中を見たところ、左手に銀色の観音開きタイプの化粧扉があったが表からは見えづらいようにアコーディオンカーテンが設置されている。
お別れや拾骨の際に締め切るのだろうと思われる。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:43 No.6203
外には、右手に霊灰塔、左手にミニ焼却炉がある。ミニ焼却炉は、当初、旧火葬場の煙突を記念に保存しているオブジェに見えたが特に関係はないようだ。ただ、非常に小さいので何を焼却するのかは気になるところである。
さて次は、甑大明神橋と鹿の子大橋を渡って中甑島に向かう。
中甑島には平良(たいら)という集落があり、平成16年2月まで上甑村平良火葬場が設置されていた。
郷土資料を見ると、もともと平良は土葬であったが慢性的に墓地が足りなかったので昭和49年に火葬場を設置し、地元の方の手で火葬をしていたとある。
火葬に慣れない頃は、他の地区から講師を招いて講習会も開催したという。
その火葬場も現在は跡地となっているが、石碑が残っているということを聞いているので立ち寄ってみたい。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:43 No.6204
中甑島に入って平良集落方向に左折し、海岸手前の空地に車を乗り入れる。
そこから少し歩くと程なく石碑が見えてきた。
「平良火葬場跡」と彫られている。裏側を見てみたがそちらには何も彫られていなかった。
石碑によると昭和49年7月から平成16年2月までこの場所にあったことが分かる。
古い空撮を見ると確かに四角い建物が確認できる。
中甑島も平成5年度に架橋で上甑島と結ばれたため、火葬場の老朽化もあいまって上甑島葬斎場に統合されたのであろう。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:43 No.6205
次は、令和2年8月に開通した甑大橋を渡って下甑島に向かう。
中甑島と下甑島の間の藺牟田(いむた)瀬戸は狭いところで約1.3キロであり、そこに1.5キロの橋を建設した。
実際に現場を見下ろすと、絶海の孤島でよくこのような大工事が行われたものだと感じる。
架橋直後は、観光客の入り込みが増え、港の駐車場が混雑しているというニュースを見たことがあるが、現在はどうであろうか。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:44 No.6206
下甑島に渡ると旧鹿島村地域に入る。藺牟田という大字一つの村であり、下甑島の北側三分の一ほどを占めている。
下甑島も、元々一つの村であったが、鹿島地区と他の地区が山で隔てられているため分村し、北部が鹿島村、南部が下甑村となったのである。
資料によれば、鹿島葬斎場は、旧鹿島村葬斎場であり平成2年4月に供用開始され1基の火葬炉がある。甑島の中では一番新しい施設となっているがそれでも30年以上が経過している。
古い資料を見ると、それ以前には鹿島村火葬場が設置されていた。大字は藺牟田で同じだが番地が大きく異なっているため違う場所にあったと思われる。
さて、上甑島葬斎場は使用していなかったが、こちらはどうだろうか。
できれば休場日であって欲しいが、と祈りつつ藺牟田の市街地を抜け、南に少し行き、鹿島葬斎場に入る道を右折した。
道の突き当り右手が駐車場となっているが、既に車両が数台とめられていて使用中なのが予見できた。
場内が狭いため、供車は火葬場敷地前に設置された駐車場にとめるようになっている。
進入路は、火葬場以外に行けないため、駐車している車は関係者のもの以外ありえないのである。
建物前には黒い服を着た人影も認められて使用中が確定したため、部外者としてはお別れの邪魔をしないように出直すしかない。
建て替えまであと9年あるので今は無理をして詳しく撮影することもないだろう。ただ、一方で、はるばる訪ねてきてこのまま手ぶらで帰りたくないのも事実ではある。さて、どうしたものか。
妥協点を探るべくしばらく思案して、ふと場内に目をやると幸いなことに、その時は建物外に出ている方がおられなかったので、門柱のところからさっと撮影し、先を急ぐことにした。
ただ、家に帰って画像を見てみると、敷地境界の植栽に建物がうまく隠されていて全体が分かりづらいのは残念であった。再度訪問する口実が出来たと良いように考えるしかない。
今後、ここに甑島の統合された葬斎場が建設されるが、具体的な建設位置や工法等はまだ発表されていない。
駐車場スペースに新葬斎場を建設するのか、それとも現建物の敷地を再利用するのであろうか。現建物の敷地を再利用するのであれば、一時的に閉鎖して解体し、建て替えの間は上甑島葬斎場か下甑葬斎場を使用することになる。
ここからどちらの葬斎場に行くとしても距離はほぼ同じ18〜19キロで、上甑島葬斎場の方がわずかに1キロ短い。
また道路の広さで言っても上甑島葬斎場の方が若干利用しやすいが甑大橋を渡る必要があり、風の強いときに不安がある。
下甑葬斎場へは同じ島なので天候に左右されることは少ないが、道が狭く制限速度も低いためその分時間を要する。
現状では狭隘な敷地なので、建物解体後に拡張するか、駐車場部分も一体化して利用するかのどちらかになるのではないだろうか。
火葬炉数は、人口3600人で将来も減少が続くのであれば1炉でも足りるだろう。予備炉を設けるかどうかで最終的な炉数が決まると思われるがそれでも2炉を上回ることはなさそうである。
離島という環境から、万一、火葬炉が故障するとぎりぎりの1炉しか設置していない場合は火葬が即座に滞るので、そういったことを踏まえて予備炉があれば安心ではある。
最終的に薩摩川内市がどういう判断をしたのかは、いずれ火葬場整備基本計画等で判明するだろう。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:44 No.6207
次は、県道をそのまま南下して19キロ離れた下甑葬斎場に向かう。
旧下甑村域に入ると、道幅が狭くなり中央線がなくなる区間が増えた。先に橋がつながった北側から順に道路整備がされてきている様子が分かる。
それでもところどころバイパスが整備されてきているので、いずれは全線で片側1車線の道路が完成するものと思われる。
狭いところでも対向車はそれなりにすれ違うため慎重に運転する。
資料によれば、下甑葬斎場は、旧下甑村立火葬場であり昭和53年4月に供用開始され1基の火葬炉がある。
昭和47年度の「過疎地域問題調査報告書:地域調査 鹿児島県薩摩郡下甑村」によると、その時点では土葬で、山がちな地形のため墓地が足りず、火葬場の建設が求められているという記載があったため、下甑村立火葬場以前の施設はなかったものと推定する。
県道を進み、長浜地区と手打地区の中間地点である青瀬地区で山側に右折する。道端には「ナポレオン岩」といった観光名所に加えて「火葬場」という案内もあって分かりやすくなっている。
そのまま細い山道を2.3キロ上がって行くと右手側に火葬場が見えてくる。
人口から考えて2箇所続けて使用中ということはないだろう、と考えているうちに下甑葬斎場前に到着した。
ところが、入口左手にある霊柩車のものと思しき車庫の扉が開放されているではないか。ストリートビューでは閉鎖されていたのに。
ということは、今まさに、お迎えに行かれているところと考えられる。
高い樹木はなく、鹿島葬斎場よりは場内の見通しが良いものの、こちらも敷地が狭いことと入口が上り坂になっている関係で意外と撮影が難しい。
このタイミングでは詳しく撮影することは見送り、帰りの船の時間と相談して出直すことを考え始めた。
遅くなったとしても16時には里港待合所に到着して乗船券を購入しておく必要がある。
レンタカーを返却する時間も考慮して逆算すると、14時30分がこちらを出発するリミットということになる。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:45 No.6208
色々考えを巡らせつつ入口近くまで行ってみると、建物の窓が開いているのを確認したので、ここも使用中であることが確定した。
駐車されている車の台数から、今は職員の方や葬儀社の方だけのように見受けられたが、建物内ではお迎えの準備で忙しくされているだろう。
そして、ほどなく霊柩車と御遺族の方々も到着されるはずだ。ここで鉢合わせることは避けたいので急いで出発する。
来た道を引き返し、海沿いの県道に出ると、とりあえず道路の終点である手打港へ向かった。
旧手打港跡地前にある広場に車を停め、時間調整も兼ねて休憩することにした。
先日、鹿児島県本土側の撮影で430キロも走っていたので直ぐに寝てしまい、暫くして携帯のアラームで目覚めた。
疲れからか、タイマー設定を誤り、想定より遅い時間になっている。帰りの船の時間を考えるとあまり余裕がない。
本来はもう少し早く起きて手打診療所や武家屋敷跡等も見てみたかったが全て却下して下甑葬斎場に向かう。
ほぼ火葬場しか見ずとんぼ返りした隠岐での反省が活かされていないではないか…自己嫌悪に陥りつつ車を運転する。
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名前:こむすび
:2024/06/11 (火) 21:45 No.6209
20分後、再度、下甑葬斎場前に到着した。
接近してみると、建物外には誰もおられなかったので、門のところから撮影させていただいた。使用中であればこのあたりが限界だろう。
開放された入口扉から銀色の観音開きの化粧扉が見えた。
時間や御遺族の滞在など諸般の事情を鑑み、これ以上ここで粘ることは難しく状況も変わらないと判断して里港に戻ることにした。
御遺族の帰宅を待つとしてもそれが何時になるかはこの時点で不明であり、現在の時刻と相談しても、今すぐこちらを出発しないと船に乗り遅れる可能性が出てくる。今日中に帰宅しないと明日の勤務に穴をあけて面倒なことになるし何を言われるか分かったものではない。
「もしもし、こむすびですけれども、鹿児島の離島で火葬場を撮影していたら船に乗り遅れたので休みたいのですが。」などと正直に電話すると始末書の1枚も書かされる可能性がある。万一の際には、もう少し違う理由を用意しておかなければならない。
急いで車をUターンさせ山道を下っていると、ちょうど県道に合流する手前で○○家という札を掲げたマイクロバスとすれ違った。
空車だったので帰宅のお迎えに行くところであろう。あと少し遅ければあの狭い場内で鉢合わせて身動きが取れなくなっていたはずだ。
再訪問のタイミングとしてはかなり際どいところだったと冷や汗をかく。
また、今から火葬場に引き返し、帰宅された後に撮りなおすには残念ながらもう時間がない。せめてあと1時間、いや30分あれば。そういう微妙なタイミングであった。
やはり、遠隔地の離島では予備日が必要だったと痛感する。しかし、もはやどうしようもない。残り2回の訪問の際には必ず設定しようと誓う。
そして気を取り直し、撮影モードから日常モードへ気分を切り替えつつ、40キロの道のりを1時間ほどかけて戻っていく。
レンタカー会社に車を返却したときには、既に船の出航時間まで1時間を切っていた。
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名前:こむすび(本投稿最終)
:2024/06/11 (火) 21:46 No.6210
その後は、利用分のガソリン代を支払い、港まで送っていただいた。
まずは川内港行きの乗船券を購入する。これで船に乗れることが確定し、新幹線等で路線トラブルがなければ明日の欠勤はなくなった。
ほっとするとお腹がへっていることに気付いた。食料を買い損ねて朝から何も食べていなかったのである。
そうだ、せっかく甑島に来たのだから名物のキビナゴ丼を食べてみたい。時間はないが急いでかき込めば間に合うだろう。
ところが、コロナの影響なのか、港の食堂ではメニューには記載されているものの、現在、飲料のみで食事の提供は中止しているとのことだった。
コロナが5類感染症に移行して1年が経過し、本土では様々なことが解禁されたような雰囲気となっているが、島では医療体制の制約から現在でも厳戒態勢が敷かれているのである。
上陸の際に見た港の注意書きでも、確かにマスク着用の案内が記載されていた。
今後、ここに限らず島を訪問される予定のある方は注意していただきたい。
食事はできなかったが、撮影のお礼も兼ねてキビナゴのみそ漬けやその他海産物の干物、お菓子等を買込み、多少、島の経済に貢献する。
本来は、火葬場の自販機で飲料を複数購入して、直接、収入に貢献したかったが、見当たらなかったのでやむを得ない。
大量のお土産をかばんに詰め終わった頃、16時30分発の高速船2便がやってきた。始発は下甑島の長浜港である。
こうして3日間に渡る鹿児島県の火葬場撮影も終わりを迎えた。
本土側での撮影も含め、うまくいかなかったこともあったが、それはその時の巡り合せであり、利用者がおられるなど頑張ってはいけないところでは無理しないことが今後につながるのではないだろうか…などと考えているうちに深い眠りに落ち、気付いたら川内港に接岸するところだった。
港で17時30分発のシャトルバスに乗り継ぎ、川内駅でも「かるかん」といった鹿児島県本土側のお土産や弁当等を購入して18時53分発のさくら572号に乗車する。
指定された座席に腰を落ち着け一息つく。仕事での3日間はやたらと長いのに、火葬場撮影であればあっという間に過ぎていく。
日程も都合上、友引を絡めることができなかったため、使用中の施設も多かったが、事故やトラブルもなく無事に終了したことは幸いであった。
今回は、行きとは異なり、途中での乗り換えがなく新大阪駅まで直通する列車である。
寝過ごす心配がなくありがたいが4時間座りっぱなしは腰にくる。夜間で景色も見えずどうやって時間をつぶそうか。
しかし、杞憂であった。
この3日間の疲れが勝ったのか弁当を食べて直ぐに意識がなくなり、気付いたら新神戸駅を発車したところだった。
これから9年後、新しい甑島の火葬場はどのような形で姿を現すのだろうか。
上甑島葬斎場や下甑葬斎場エリアからだと、20キロほどあるためまず待合室は設置されるだろう。
今後の人口減少具合によっては、各地の葬儀式場も維持できるか分からず、火葬場にも式場スペースが要るかもしれない、などと薩摩川内市役所職員の気分になって考えているうちに、列車は新大阪駅へ静かに滑り込んだ。
名残惜しいが列車を降り、再度日常へと足を踏み入れる。
いつかその日が来るであろう甑島再訪を楽しみにしつつ、翌日からの勤務再開に頭痛を感じながら地下鉄乗り場へ急いだ。
明日からまた旅費を稼ぐ日々が始まる。